巻頭言:牧師 二宮 功(教会設立40周年記念誌より)


「世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから 来たのか、水を汲んだ召し使い達は知っていた。」 (ヨハネ伝2章9節)

 設立当初を思い出そうとしている。40年を振り返ることは容易ではない。
しかし、振り返らねばならないし、思いださねばならない。これからの泉南福音教会の50年、60年の歩みのために。

 選民イスラエルの歴史に絶えず影響を与えたのは、40年のシナイ荒野でした。そこに見た野は峻厳なる神、義と聖をまとわれる神、その御方が慈愛を兼ね備えた御方であり、「見捨てず、見放さず、背負い担い、持ち運ばれた」事実である。この聖句をあげての設立40周年記念である。

「目をあげて畑を見なさい」と主は言われる。
人の目線ではなく、主の目線に合わせることを求めておられる。足元に転がっている多くの否定的、消極的なものに目を落とすのではなく、主の指し示す方向、領域に信仰の目を向けるのです。見える現実は必ずしも明るいとは云えないかもしれない。約束の地を目前にしながら、シナイ荒野に死に絶えた民のごとく。しかし、確実に次世代に受け継がれ、継承されているのである。

 次世代を担う子ども達の育成、現在この子どもに対して多くの愛が注がれ時間がかけられている。育てるには手が掛り、気が掛り、金がかかるものと言われる。人数は必ずしも多くは無いが、主の愛が教会の信徒達、特に子ども集会(CS)教師達を通して注がれている。「成長させてくださるのは主である。」の御言葉のごとく。

 次世代を担うには次世代の働き人が求められる。新しいぶどう酒には新しい皮袋がが必要であるように。この点に関しても主は備えておられる。担うのは主だけではない。若き世代だけでない。また、教職献身者だけでもない。主のみ救いに与り、主の御体の部分とされた全ての信徒達の双肩のかかっているのである。

 水を汲む作業は単調である。大きく貢献しているとは思えないことが多いのである。
しかし、このご命令はあらん主のお言葉である。
私た達はこれまで多くの水を汲んだ召使達の恩恵に与ってきた。
今私たちはその作業中である。今後主に存る聖徒のために忠実に従い水を汲みたいものである。